沿 革 | |
美術院 国宝修理所の起源は、明治31年(1898)に岡倉天心が創設した「日本美術院」に遡ります。天心は院の正員新納忠之介(にいろちゅうのすけ)らを、古社寺保存法に基づく国宝修理にあたらせました。 新納らの国宝修理部門は、明治39年の組織改革で「日本美術院第二部」となり、天心没後の大正3年(1914)には、日本美術院第一部(美術品制作部門、現・財団法人日本美術院)と分かれて「美術院」と改称、新納を責任者として国宝修理を継続します。 昭和21年(1946)、戦後の経済難と高齢である新納(数え年79歳)の引退にともない、美術院の技術者たちは3つのグループに分かれ活動を続けることになりましたが、昭和30年に再び結集します。昭和43年には「財団法人美術院」として新たなスタートをきり、現在に至っています(平成25年4月1日付で公益財団法人に移行、法人名称を「公益財団法人 美術院」に変更)。 このように組織の変遷はありましたが、明治31年から今日まで百年以上にわたり、一貫して文化財修理(対象は彫刻および大型工芸品)に従事しています。 |
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明治30年(1897) | 古社寺保存法が制定される。 |
明治31年(1898) | 岡倉天心、「日本美術院」を創設。美術品の新制作を行なう一方、古社寺保存法により国宝(いわゆる旧国宝)に指定された古美術品の修理を委託され実施。木造彫刻の修理は日本美術院正員の新納忠之介(にいろ ちゅうのすけ)が中心となって行なう。 |
明治39年(1906) | 日本美術院の組織改革が行なわれ、美術品の新制作部門を第一部、国宝修理部門を第二部とする。「日本美術院第二部」は新納忠之介を総責任者として、奈良・東大寺勧学院に事務所をかまえる。 |
明治44年(1911) | 日本美術院第二部の事務所を、東大寺勧学院より無量院(奈良市水門町)に移転。 |
大正2年(1913) | 岡倉天心没。 |
大正3年(1914) | 日本美術院第一部と第二部は各々独自の道を歩むこととし、第二部は「美術院」と改称。新納忠之介を総責任者として引き続き国宝修理事業を継続。奈良に拠点があることから「奈良美術院」とも称された。(第一部は横山大観・下村観山らにより「日本美術院」の名で運営され「院展」を主宰して今日に至る。) |
昭和4年(1929) | 古社寺保存法をさらに充実した国宝保存法が制定される。 |
昭和12年(1937) | 京都・妙法院三十三間堂の千躰仏(木造千手観音立像1001躯)修理が開始される。戦中・戦後を通して事業は継続され昭和32年に竣成。20年をかけた大修理であった。 |
昭和21年(1946) | 戦後、総責任者新納忠之介は引退するが、美術院の技師たちは東京・奈良・京都(三十三間堂工房)の3グループに分かれ、国宝修理を継続。 |
昭和25年(1950) | 旧法を総合した文化財保護法が制定される。 |
昭和30年(1955) | 3グループに分かれて活動していた美術院の技師たちが、京都・妙法院の三十三間堂工房(昭和12年から千躰仏修理中)を拠点に再結集する。 |
昭和37年(1962) | 京都国立博物館構内に修理工房を置く。 |
昭和43年(1968) | 美術院、文部省(現 文部科学省)所管の財団法人となる。 |
昭和51年(1976) | 美術院が保持する「木造彫刻修理」技術が文化財保護法の定める「選定保存技術」に第1号として選定される。 |
昭和55年(1980) | 京都国立博物館文化財保存修理所内に工房を開設。 |
昭和63年(1988) | 奈良・東大寺南大門の木造金剛力士立像2躯の修理が開始される。平成5年(1993)竣成。美術院を代表する修理の一つである。 |
平成14年(2002) | 奈良国立博物館文化財修理所に工房を開設。 |
平成17年(2005) | 九州国立博物館文化財修復施設で修理を開始する。 |
平成25年(2013) | 4月1日付で公益財団法人に移行し、法人名を「公益財団法人 美術院」に変更する。 |